トキワ荘のあった場所 ~南長崎でゆかりの地を巡る[1]

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前回の記事でモニュメント設置のことを書きましたが、そのついでに久々にトキワ荘のあった周辺を歩いてみることにしました。

寺田ヒロオ『背番号0』のモニュメントはスポーツセンターの前に設置されているのだけれど、その建物裏側には「南長崎スポーツ公園」と名付けられた広場になります。
ここはもともと「豊島区立長崎中学校」と旧国鉄の職員住宅「国鉄アパート」という施設が並んでいて、それをまとめた敷地に現在「スポーツセンター」「スポーツ公園」が置かれている。

のんびりとした空間の公園
のんびりとした空間の公園

大江戸線落合南長崎駅の出口のある目白通り側からスポーツセンターの裏に回るとあるのがそのスポーツ公園。

南長崎スポーツ公園入口。実はこっちが正面
南長崎スポーツ公園入口。実はこっちが正面

実を言うと筆者はその長崎中学校出身で、この界隈も物心ついた頃から遊び場だった地元も地元。
上の公園入口は、かつてはその長崎中学校の校門でした。
看板はつけ変えられたけれど、塀は当時のまま。
(まったく同じものかどうかはちょっと確信がないけど)
塀のうしろにある桜の木も、中学校の頃から植えられています。

 

このスポーツ公園入口を出、正面の道をまっすぐ行くと一方通行のバス通りに出る。
そのバス通りを右へ歩いていくと、スポーツ公園ほでではないが少し広い公園が見えてきます。

そこが「トキワ荘記念碑」のある、区立南長崎花咲公園。
このバス通りから入ってすぐに記念碑があるのでわかりやすい。

公園内にあるトキワ荘記念碑
公園内にあるトキワ荘記念碑
電柱を模した記念碑の照明にはかつての住所札が。
電柱を模した記念碑の照明にはかつての住所標が。

上の住所標示には「椎名町五丁目 2253」と描かれているけれど、
前回書いたように、現在この周辺の住所は「南長崎三丁目」
うっかり伝承のイメージで椎名町駅に降りてしまうと、やや遠いので注意。

記念碑はトキワ荘の模型。縮尺は見落としました
記念碑はトキワ荘の模型。縮尺は見落としました
トキワ荘模型の下にあるプレート
トキワ荘模型の下にあるプレート
当時下宿していた住人の見取図
当時下宿していた住人の見取図

 

ところで実はこの記念碑のある公園がトキワ荘のあった場所ではなく、実際に建っていたところはここからほど近い別の場所になります。

それもまた混乱する要因なんだけど、詳細は後ほどということにして散歩を再開。

 

公園を出てまたバス通りを右へ行くと、ややこじんまりとした商店街へ出る。
ここは現在「トキワ荘通り」と呼ばれ、縁の深い場所が散在。

あちこちの店に貼られたポスター
あちこちの店に貼られたポスター

本来はこのバス通りがニコニコ商店街、通りを突き当たって交番(「二又交番」と呼ばれている)のある三叉路から合流する旧目白通り沿いの商店街を目白通り二又商店街と言うのだけれど、それを合わせてトキワ荘通りと総称しています。

通りを散策するとこんな立て看板も。
通りを散策するとこんな立て看板も。
トキワ荘の漫画家たちが通っていた銭湯跡も。
トキワ荘の漫画家たちが通っていた銭湯跡も。

そういえば、石ノ森章太郎の回想録で風呂に入る金がなかった赤塚不二夫がトキワ荘の共同洗面台で行水してたというエピソードがありましたな。

そんな思いも馳せながら散歩ができるのもいいところ。

通りにはこんな風情のあるマーケットも。今も営業中
通りにはこんな風情のあるマーケットも。今も営業中

通りを行くと見えてくる、懐かしさ漂う「山政マーケット」。

トキワ荘通りから山政マーケットを臨む
トキワ荘通りから山政マーケットを臨む

ここも筆者が小学生時分にはけっこうな賑わいがあったのだけれど、今はシャッターの降りたままの店舗も目立ち、代わりに区が「お休み処」を設けています。

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この先にあるのが「ンマ~イ!」で有名なラーメンの松葉

トキワ荘通りに面した「松葉」。
トキワ荘通りに面した「松葉」。
松葉。正面から
松葉。正面から

店の表にはあの「ンマ~イ!」のページのコピーも。

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とは言うものの、ほぼ半世紀を地元民として過ごした筆者も、この「松葉」のラーメンを喰ったことがないんだよね。

うん、小・中学校の同級生の間では、まったく話題になったことがなかったし。
まあ、「地元密着型の、よくあるラーメン屋」くらいの位置づけだったと思う。

『まんが道』では激ウマのラーメンみたいな表現がされてるけれど、正直、あの昭和30年前後の時代にラーメンなんて物珍しい料理だっただろうし、特に北陸の地方から上京してきた藤子不二雄の二人にとっては、初めて食べる味に感激した、というのが真実だったんじゃないのかなあ。

と、ちょっと穿った見方をしてしまうんですけどね。

ついでの余談ですが、実は筆者の母は藤子不二雄と同郷の富山県高岡市出身。
更に云えば母の出た高校は県立高岡高校。
そう、藤子不二雄Aこと、我孫子素雄氏と同じ。我孫子氏は母のひとつ上の学年だったそうです。
なので、あの『まんが道』に出てくる高校時代の挿話も「これはホントにあった」「これは違う」と逐一解説されたりしました。

もひとつ後に母が語ってくれたところでは、母の生家が「藤本さんの家と斜向かいだった」とか。

けれど、後年ここ豊島区南長崎に居を構えたものの、我が家が住み始めたのが昭和40年代。藤子不二雄はじめトキワ荘グループがこの界隈を闊歩していたのは昭和30年代であり、完全に行き違いになっていたようです。

でも、高岡高校の東京での同窓会では藤子A先生とは言葉を交わしたことがある、と母は語っていました。

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よく見ると看板の電話が3ケタのままである

 

さて、松葉を後にすると、通りの向かいに「日本加除出版株式会社」という看板が見えてきます。

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この建物脇の路地の奥がトキワ荘跡地

実は路地の奥のこの日本加除出版株式会社という会社の在所が、かつて「トキワ荘」の建っていた場所。

路地突き当りにある日本加除出版株式会社の建物
路地突き当りにある日本加除出版株式会社の建物

建物を見て右に曲がったドン詰まりに、小さな碑が設けられています。

トキワ荘跡地の碑
トキワ荘跡地の碑

こここそが正真正銘、トキワ荘があった場所

碑の説明にも明記されている
碑の説明にも明記されている

こちらの住所標は「豊島区南長崎三丁目 16-6」

日本加除出版の塀にある住所標示
日本加除出版の塀にある住所標示

先述したとおり、「椎名町」ではないんです。

この辺りは、かつては「東京府豊島郡長崎村」という地域で、その中に「椎名町」という地名が在りました。

長崎村椎名町。

「村」の中に「町」があるという、なんだか珍妙な住所だったんですね。

それが後の区画整理により「椎名町」という地名が独立、長崎村は西武池袋線の開通で南北に分断され、線路の北側を「長崎」、南側が「南長崎」となったという次第。
ちなみに駅名である「東長崎」という地名は存在しません。この名称は

“九州にある『長崎』の東のほうにある『長崎』だから”

という理由らしい。

西武池袋線はけっこういい加減な駅名があって、隣の『江古田』駅も読みが「えこだ」なんだけど「えこだ」と読む地名はなくって、実は地名としては「えごた」

昔はテキトーだったんだろうなあ。

ちなみに後に出来た都営大江戸線のほうの駅名『新江古田』駅は「しんえごた」と読みます。

 

…あ、まだまだもうちょっと散歩は続くんだけど、あんまり長くなってきたので次回に続きます。

ニコニコ商店街のゲート。こちらは二又交番側
ニコニコ商店街のゲート。こちらは二又交番側

 

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